「血族 アジア・マフィアの義と絆」宮崎学 幻冬社アウトローズ文庫

謝俊耀の人生を通して、第二次世界大戦〜中国の国共内戦ビルマ少数民族独立運動〜ヴェトナム戦争カンボジアポル・ポト政権等を描き出したノンフィクション・ノベル。

 

謝俊耀は1925年、中国梅県の客家(※1)に生まれた。

イギリス植民地下のシンガポールに移住し、1942年イギリス軍として初陣、後に抗日ゲリラ化する。

終戦後、イギリス統治下の香港にて蒋介石・国民党軍として毛沢東中国共産党軍と闘う。

1951年共産党勝利で内戦が終結し、モン族独立運動の連携を図るためビルマへ。ビルマ政府軍と戦いながら、阿片取引や偽札作りの収益でモン族を守る。

1960年〜ヴェトナム戦争にアメリカ軍が直接介入するようになり、阿片をアメリカ軍へ流し弱体化を狙う。

あくまで中国国民党軍人として、またモン族を守る父としての顔を保ちつつ、客家・洪門(※3)のネットワークとアウトロー稼業を通じ、独自の解釈で戦い抜いてきた。

 

わたしが今まで触れてきた歴史・戦争に関する情報は、西欧の資本主義の視点から描かれていたと気づかされる。年号、国の名前、権力者の名前、政治、思想くらい。

太古から紡がれてきた、民族・民衆に生まれる特異な思想、行動のパターン、その国独自の陥りやすい歴史、教科書の行間に表しにくい部分も存在しているのだ。

歴史を知る、戦争を知るとは、国家戦略を知り、民族を知り、思考・視点についても多方向から検証しなければならない。

一人一人が多くの視点を獲得し、知識の共有ができればと思う。

 

※1客家(ハッカ)中国南部に分布する漢族の一種。習俗・言語を捨てず、内部の団結が固い。正統漢民族としての誇り、民族意識が強烈。歴史的に土地がなく、才覚のみで身を立てるため、インテリが多い。華僑として活躍。

※2幇(バン)同族、同姓、同郷、同業といった理由で結社を営む相互扶助組織。中国人社会は、幇を基礎として社会的関係を形成していく傾向がある。

※3洪門(ホンメン)中国南部、南海の華僑の間に存在する秘密結社。17世紀後半に漢民族の明を再興する目的で作られたが次第に幇と同じ相互扶助組織へ。仁義を重んじ

兄弟関係のような平等・水平的な関係を結ぶ。

「愛すべき娘たち」よしながふみ 白泉社

女性の視点から、親子関係や社会の抑圧や高潔さの保持を、あらためて独自のセリフで表現し直している連作短編集。

とくに最終話は胸につまるものがある。

嫌な性格にならないように不細工と言い聞かせた祖母とそのため確執の残る母、そのコンプレックスを見守る娘。

心の中にいる、娘時代のわたしの傷を疼かせる。

誰しもが思想を持ったひとりの女性であり、相手を傷つけ続けながら関係していかなくてはならないと、後になってわかるけれど。

どうか、家族の確執が、たとえば理知的に分析・表現化することによって、たとえば何気ないやさしい一言によって、少しでもとけ出しますように。

 

「アドルフに告ぐ」全4巻 手塚治虫 文春文庫

ヒットラー出生の秘密文書を巡る3人のアドルフの戦いを、1936年から1983年に渡って描いている。

「総合小説」という言葉があるが、政治・戦争を、時代の匂い・町の雰囲気を、殺人・狂気・正義・欲望・愛情・希望の群像劇を、どうしたらひっくるめて物語をつくり出せるのだろうか。

戦争を知らない私は、残酷さにモザイクをかけられた情報に囲まれて、甘っちょろく善良に生きている。

もちろん幼い頃から教育をされれば、民族を差別し、大勢を殺し、兵隊となって命を投げ出していたかもしれない。人間の思想なんてそんな薄っぺらい、川に流れる葉っぱのようなものなのだ。

ただ、どんな状況でも、生きようとする意思、生まれる命はある。

現代で、戦争を知ること(人間の残虐性)、文化を大事にすること(経済に左右されないこと)、人類に食料とエネルギーを分け与える方法を考えることを考えながら、ご飯と家族を大事にして生きていく。

「世界ケンカ旅」大山倍達 徳間文庫

空手家・大山倍達の若かりし頃の記録。

清澄山での一年半の山ごもり、山からおりて牛を49頭倒し、70頭の角を折る。

空手を広めるためにアメリカへ渡り、プロレスの前座として巡業する。

世界中の格闘術を観てまわり、また対峙する。

裏表紙には「男のためのケンカ術」と書いてあり、世界を旅する間に訪れた危険にどのように対処したか、具体的に描かれている。

相手の態度がわかるまで部屋の電気のスイッチを背にして立つこと、自分の気持ちをできるだけ落ち着かせること、相手の神経をなんとかかき乱すこと、急所の狙い方等。

心身をきたえて、身体ひとつで世界に飛び出して、闘って、セクシーな女性がその強さに寄ってくる。

なんてわかりやすい素敵な世界だろう。

経済や法治や思いやりやなんやらのしがらみのない、シンプルさ。

深夜特急」を読んだ中学生以来ひさびさに、男になりたいと思った。

 

「僕は鳥になりたい」西炯子 小学館文庫

表題作。

 

特に春先になると ぎしぎしと何かがきしむような音がした

それは何かがせめぎ合ってるような音だ

そして常にその音は俺の体の中にもあったのだった

 

東京から離れた男子校。4人部屋の寮に暮らす高校3年生の針間。(受験にはとらわれない、作家志望、よくもてる)

針間と同室の両角(家庭環境の問題、孤独、翼で飛ぶことを夢みる)とミッションスクールに通う新田由子(父子家庭、針間を恋愛対象として見ていない)との交友。

にぎにぎしい高校生活。分かりやすい主題は受験勉強と性欲だろう。そこからこぼれ落ちた感受性がある。スクラムを組むような友情ではなく、自由を夢見る両角を見守る針間。恋愛ではなく、聖母のように佇む新田由子。

そこでしか息をつけない、その幸福。あまりに頼りない、その淋しさ。

 

「BANANA FISH ANOTHER STORY」吉田秋生 小学館文庫

少女まんが家にしてコンクリートの廃墟を描くのが得意とのこと。

大雑把に言ってしまえば、NYのギャング・ストーリー。圧倒的な筋運びの面白さ。

主役のアッシュの魅力。(灰色がかった金髪と怒ると赤い色に見える、悪魔の緑色の瞳。IQ180以上の頭脳。鍛えられた戦闘能力)

このふたつだけでも、「BANANA FISH」文庫で11冊を読ませるには十分だっただろう。それに加えて、台詞のスマートさと可愛らしいユーモアがちりばめられている。

ただ、私がいちばんぐっとくるのは、切なさを感じる部分だ。

本編が終わった7年後を描いた「光の庭 THE GARDEN WITH HOLY LIGHT」の後半部分。ケープ・コッドを訪れた英二たち。古い一軒家の玄関テラスの犬。女の子に降り注ぐ太陽の光。郷愁の中の白いひかり、清冽な空気。

一枚の写真。NYの窓際に座る眠るような祈るようなアッシュの横顔。

喉の奥にぐっとくる切なさと、恋愛ではないからこその深くて何かに繋がるような愛を感じる。

「ゲゲゲの鬼太郎①」水木しげる 中公文庫

小学校低学年の私は同級生の家で、アニメを観ていた。

記憶によれば、ねずみ男に騙されて鬼太郎が海のバケモノになってしまうという筋書きだったと思う。

何倍もの大きさにふくれあがり、汚い緑色になり、声が出せなくなった鬼太郎。

小舟に乗ったともだちに、「たすけて」と言いたいのに、伝わらずに攻撃される。

そのかなしみと声を出せないくるしさと気味のわるさで、吐き気をもよおして家へ帰った。

その吐き気と気持ち悪さをよく覚えている。

 

1話目は「墓場鬼太郎」とほぼ同じであり、設定は確固としている。

しかし2話目からは悪い妖怪(もしくは人間)をこらしめる鬼太郎の活躍が描かれる。

妖怪退治をひきうけ、貧乏人からお金はもらえないとお腹をへらし、お金持ちから家を差し上げると言われると「ぼく家があると日本中を旅行できないから小児マヒの子どもの家にでもしてくれ」と答える。強いようでいて、妖怪によく食べられてしまうしかまぼこにされてあちこちに売られたりしているが、話の終わりには妖怪を倒して飄々と歩いている鬼太郎。

ねずみ男は妖怪と人間のハーフで、不潔で金に汚く、たいがい儲け話の為に鬼太郎を騙し、悪い妖怪の手先になるがその為にひどい目にあっている。が、やはり次の話になれば飄々と歩いている。

その人間だろうが妖怪だろうが、生きていようが死んでいようがというような飄々さに魅力を感じる。