煙草
30歳まで煙草をすっていた。
ほそいメンソールや、雑誌の写真を真似たハイライトや、恋人とお揃いのマイルドセブン、最後は緑色やオレンジ色のアメリカンスピリットだった。
はじめは、誰にも見せない部分だった。
ひとりの部屋で、星を見上げながら、煙草をすって、一晩中物思いに沈んでいた。誰とも分かち合えないものを抱えていた。
人前で喫煙をかくすことで、壁をつくって、どろどろの自分にお面をつけて、世界と相対することができると思っていたのかもしれない。
そのうちに、煙草をすうひとたちと知り合った。
そのひとたちの家で、ひとつの灰皿で、夜明けまで話しこんだ。
中華料理屋や、喫茶店や、アルバイト先のベランダで。
彼らは、自分のことを底まで話してくれた。
わたしも、少しづつ話すことができるようになっていった。
そのうちに、またひとりですうようになった。
本を読んだりコーヒーを飲んだりiPodを聞きながら。
そして本とコーヒーとiPodと煙草と仕事と恋人と夢と絶望やらなんやらかんやらで1日が過ぎて行くことに、うんざりしたわたしは、ひとつずつやめていくことにしたのだ。
テレビを、通信販売を、漫画を、恋人を、煙草を。
禁煙のこつは、スタートとゴールをきちんと決めること。
30歳になったら禁煙して、とりあえず10年吸わないと決めた。
いま、夫はベランダで煙草をすっている。
わたしはたまにドライセージの葉を燃やしてみるくらい。
また、だれかと煙を分かち合う日がくるだろうか。
やりきれないこころはずっと抱えたままだろうか。