死について

死は覆い隠されていた。

曾祖父母は既におらず、引っ越しを繰り返していた核家族で育った。

地方都市の道路に、雀や蛙が車に轢かれて死んでいることがあった。

本で得たイメージか、友人と道端の花を摘んで、そのそばに撒いた。

ショックは受けたが、その死体の細部はあまり見ないように、またそのことについて深く考えすぎないように、無意識にそういった方向に自分を向けていたように思う。

歌手や俳優が亡くなったときに、テレビがその人の追悼番組を制作し、性格や

業績を讃え、全員が嘆き悲しんでいると報道することに小学生の頃から違和感を感じていた。

その頃はまだ言語化できずに、ただいつものアニメが観られないことが不思議だということしか自覚していなかったが、例えば亡くなった歌手が生前歌っている姿を放映するとき、(偉大で圧巻なパフォーマンスでしょう)(もうこんな人は現れないでしょう)(どうぞ泣いて故人を偲んでください)といった視聴者側の感想が限定されていることへの違和感をたしかに感じていたのだ。

中学1年の英語の授業で、「マイガール」という映画を観た。登場人物が亡くなるシーンがあり、授業終了後も泣いている同級生がいた。そのやさしく可愛らしい少女を羨ましく思い、泣いていない自分に欠陥があるようにも思った。そのシーンを観て、胸を衝くような衝撃を感じたが、涙腺を刺激されるような感情にはならなかった。

その後たくさんの本や映画に触れ、登場人物の喪失の場面がよくできていると、音楽にもぐっときたりして、かんたんに泣いてしまうようになった。経験や情報量の蓄積によって、感情が単純化しその神経回路の部分が太く繋がりやすくなったと考えている。

祖父母が亡くなった頃はとくに実家と連絡をほぼとっていなかったこともあって、生前に顔を見ることもお葬式に行くこともなかった。結婚が決まったときにはじめて夫と墓参りをした。

23歳のときにアルバイトをしていた職場の人たちは、体育会系のためかずっと連絡をとりあってたまに会ったりしていた。その中の1人が白血病と聞いてからまもなく亡くなったと連絡がきた。

仕事帰りにしまむらで喪服を買い、インターネットでお焼香のやり方を検索して通夜に向かった。よく晴れた冬の日でコートはダッフルコートしか持っていないためそれをはおった。

先輩2人とタクシーで葬儀場に着いて、他の人を待つ間先輩は葬儀場の裏で煙草を吸っていた。すこし離れたところでわたしは植え込みの木を見つめ、空を見上げ、看板に書かれた故人のフルネームを見つめた。

読経とお焼香が終わり、上司と父親の挨拶のあと、棺に入った顔を見せてもらった。病気のためか、わたしの記憶とずいぶん顔が変わっていた。むくんで顎のあたりが縦にものびていた。そこで堪えきれずに吐くように泣いてしまった。苦しい涙だった。

出棺の際には涙は止まり、駅でかつての職場の人と集まって昼食をとってから帰宅した。

実際の喪失感とは自分の口元のあたりにずっと漂っている膜のようなものだった。生ぬるく重量感のある膜が貼られて、息苦しい。そして自分の甘さやずるさを、厳しく指摘してくる。

そして思い込みや想像の可能性もあるけれど、故人の気配はやはり、優しく神聖さを帯びてかすかに感じられた。自己中心的で排他的、頑固で変わりものだったけれど、自分の生き方を生きて、ほんとうに人に優しい人だった。