中学の国語の教科書に志村ふくみさんの文章が載っていた。

桜が咲く前、まだ枝先も花の気配を漂わせない頃の桜の枝を折って染色につかうとうす桃色に染まる。桜の木は徐々に自らの幹に花のエネルギーを集めて、枝先にそれを貯めていく。そして一気に噴出して桜の花となって咲き誇る。

文章自体は覚えておらず、内容も改変しているかもしれないが、ずっと心に残っていて、毎春桜並木を通るたびに思い出す。

冬の葉のない桜の木、そのごつごつして灰がかった、泥と砂を練りあわせたような幹も好ましい。

春の気配と同じくだんだん枝先にもやがかかったようになると、そわそわ落ち着かない気分になる。

以前は桜の花が咲くことが、大きなショックで、受け入れることができなかった。自分の感情が嵐の海のようにいつも大荒れで、その日一日を終わらせることができるのかも分からなかった頃。わたしはこんなにも悲しいのに、どうして桜は咲くのを待ってくれないんだろう。

その感情はだいぶ丸くちいさくなったが、いまもどこかの片隅にまだある。

開花予報やお花見の話題とともに、ぽつぽつと桜の花が咲き始める。いそいそと近所の並木を見に行くと、幹や枝の迫力に負けそうなくらい地味に、ほとんど白にちかいような花が咲いている。毎年かならずちょっと拍子抜けする。

その年その年でいつも桜の季節の気候はちがう。肩を出す若い女性がいるほど暖かくなったり、風が強かったり、雪が降ったり。合間をぬってせっせと桜の花は咲き、全体の4割、7割、8割になっても、まだボリューム感は足りない。

そしてそのときはくる。臨界点をこえて桜は咲き誇り、枝や幹は背景となる。道路の上に、池の水面すれすれに、雪柳の上に覆いかぶさる。ただ圧倒されて、ぽかんと、埋没するようにその中に佇むしかない。

会社までの坂道を、大学正門の道を、市役所の前の通りを、いつも桜並木を見上げてあるく。受け止めきれないほどの華やかさは、やはり少しわたしを悲しくさせる。

いつか冬から春へ桜が咲いて散る過程を、そのままに受け入れられる日がくるだろうか。ただ喜び、酒を飲み、友人と笑い、桜を背景にして夏を待つことができるだろうか。