大掃除
まず大掃除しなくてはと思い立つ。
ぼんやり浴室のカビ取りや換気扇の油汚れの掃除や片付けなどのイメージが浮かんでいる。
よく晴れた日に早起きして一気にやり遂げて、くたくただけど家はピカピカ、すっきりしたエンディングを信じている。
やり始めてから気付くのだ。大掃除という3文字のなかに、日常の掃除のルーティンワークに含まれない膨大な雑事がまとめられていることに。
大まかに分けると、
・ものの把握と不要なものの処分
・ものを移動させての掃除、汚れと対峙し分析し対処する
・普段みないふりをしていた用事を片づける
他にも必要なものの買い出しや調べものなども必要だ。
たくさんの時間と情熱と体力を持ち合わせた人なら、お祭りのように、例えば一気に処分、一気に掃除、一気に用事をすませることができるのかもしれない。わたしにはできるイメージすら湧かないけれど。
早起きもできないし、効率よくもできないし、すべてを投げ出すこともできないので、終わりを考えず、玄関から地道に始めることにした。
不要な靴を処分し、掃き掃除と拭き掃除をした。これから靴を洗って、修理が必要なものをお店に持っていく。
日常のルーティンワークに組み込めないかを模索し、不要なものや不要な雑事を減らして次回の大掃除の容量を減らす方法を考えなくてはならない。
強制でも仕事でも好きなことでもないのに、休日を使って正解を探している。しみじみと不思議なことだと思う。
終わりがなさそうでいて、どこかに自分の生き方のなかに収まるやり方があるのだと信じている。ひとつ片付けて掃除するごとに確かに幸福はある。
おばあさんとおばさん
なりたいおばあさんのイメージは昔からはっきりしていた。
大きな口を開けて、たくさん笑う。小柄でふくよかで足が小さい。髪はひっつめで、カラフルな布を巻くこともある。はっきりした色のワンピースを着ている。小さな小屋のような家に住んでいる。洗濯物は外に干す。たまに辛口。
昔のヨーロッパのおばあさんの写真やレニー・ハート(年齢ではなく、豪快に笑うイメージとして)さんや、マドンナが食卓にいる広告写真(イタリアのマンマ的に撮影されたそう)や、いじわるばあさんなどに影響されている。
どんなおばさんになりたいかは考えたことがなかった。
いま憧れるのはお坊さんや修道女のような人だ。真っ白な肌に黒い髪、ベリーショートも素敵だ。禁欲的な服装をし、まっすぐに背筋をのばして、色素の薄い目は遠くを見ている。厳しい修行を積んでいるため、世界を受け入れる容量が広い。
いまの生活にたいして自己嫌悪がひどいのだろう、自分の気に入らないところを削ぎ落して、うしろ暗い部分のない状態で世界と対峙したいのだ。
そしておばあさんになった暁には、社会の中での存在感は小さなものでいいのだから、どこか目立たない場所にいる、でも幸福そうに生きていると思われればそれだけでいい。
ワイン
はじめてきちんとワインを飲んだのは、友人がスーパーで買ってきた赤玉ワインだったと思う。その後自分でも買って、赤はそのまま、白は炭酸で割って飲んだ。その友人とその畳の部屋のイメージもあいまって、ほわんと懐かしいあたたかい味を覚えている。
バーでワインのカクテルを女友達と飲んだりもしたが、少し間があいて、オーストラリアのシラーズを教えてもらってから、ぐいぐい飲むようになる。
がつんと強くて酸っぱくなくてどんどん飲んで飲ませて酔っぱらった。
たくさん笑って、恥をさらして、恋をして、また出会って、色んなワインを飲ませてもらった。
だんだん強いものがのめなくなって、華やかな、香りがつよくて軽いものを少し楽しむくらいになった。
いまも、好きなお酒は?と聞かれたら、ワインと日本酒と答えるけれど、日常ではほとんど飲んでいない。夜になって、ひとがテーブルに集まって、美味しい料理とワインに目をきらきらさせて、食べて飲んで語る、そういう機会は、いまはごく稀にしかないからだ。自分でそう選択した。
あっという間に過ぎ去っていった人たちに、感謝と好意を。
人生の後半に、また新たなテーブルとワインを用意する予定です。そこでまた会う人もいることでしょう。
歌う
よく歌っていた。外でも家でも。
身体中に響かせて、大きな声で。
あまり特徴のない声だし、自分に酔っていたし、不快に感じたひともいただろう。
それでも激情といえるほどの非日常の感情を身体を使って発露することが必要だった。
そのうちに自分の歌ができるだろうと思っていた。緑の中で太鼓を叩いて、リズムができていくように。
窓のない個室で、青い光の中で、酔っぱらって歌うのではなく。
鼻歌や祈りや調和を、空気に溶けるように、風が起きるように、歌いたい。
石鹸
幼い頃、家に帰って手を洗ったあと、ふと手を見ると爪に白いかけらが付いていた。わたしは、あ、バターだと思いぺろっと舐めた。口の中に石鹸の味が広がって、無くならない。パニックになり、泣きながら母親のところに行ったことを覚えている。母親は大したことではないと思ったのだろう、ぼんやり微笑んでいたように思う。
ミューズやレモン石鹸などきつい香りのものが多かったし、なんとなく大きすぎる深すぎる手洗い場を恐れていた。排水溝がどうなっているかもわからなかったし。
中学1年の時、野外学習というものに行き、ラベンダーのハーブ石鹸を作った。食べ物や香料とは違うハーブの香りに気付いたのはそれが初めてだった。使えば肌の上にラベンダーのかすが残るし、後半は石鹸じたいがぼろぼろに崩れてしまった。それでもいま思えばときめきという言葉になるのだろうか、胸の奥にずんと響くようなつよい感情があった。
いまもハンドソープやボディソープには馴染まない。いっときは、髪も洗濯も石鹸で洗っていたが、その熱狂は冷め、台所とお風呂場と衣装ケースの中のみになっている。オフホワイトで丸みを帯びた形で素朴な香りの手に入りやすいものがいい。
筆記用具
書く道具にこだわりはない。
夫が職場から持ち帰ったボールペン、郵便局で買ったレターセットについていたハイジのボールペン、お笑い芸人のキャラクター付きのシャープペンシルなどが、机のペン立てに刺さっている。
父親にもらった青と金の上等なシャープペンシルや友人がくれた羽根ペンなど大事にしているものは棚にしまってあり、出番が後回しになっている。
いつか、気に入った筆記用具のみになる日を目指して、日々消化中ということだ。だから、インクを使い切ったり、途中で滑らかに書けなくなってしまうと、ほんのり嬉しい気分になる。
文章や絵をかいたという満足感と、とてもささやかなものだからこそ順番にまっとうに使い切ったことが大切なのだ。
ボールペン、鉛筆、カラーペン、筆ペンはそれでいいのだが、シャープペンシルは困っている。わたしはシャープペンシルが書けなくなったところを見たことがない。わたしはいつまで、レイザーラモンRGのシャープペンシルを使い続けるのだろうか。腕が上下するところは壊れたが、書くことにまったく不具合はない。