推理小説

初めて推理小説を読んだのは、小学校の図書室にあった怪盗ルパン全集(ポプラ社)だと思う。

ジャンルは冒険小説にあたるのかもしれないが、この流れでシャーロック・ホームズを読み、同じ作者の同じ登場人物が登場するシリーズを最初から順番に読むという楽しみを覚えたきっかけなので、わたしの中でだけ推理小説に分類されている。

生真面目な児童文学ばかりに触れていたわたしは、成長しきった登場人物、話の運びのスピード、その巻のみで完結する恋愛に驚いた。その分ぐんぐん読み進める快感もあった。

その後間があいて、大学に入学し一人暮らしを始めた頃、好きなように寝たり寝なかったり食べたり食べなかったりする中で推理小説を読み漁るようになった。特に日本の新作を集中して読んだのがこの頃だ。短いものも分厚いものも好き嫌いもせずによく読んだ。百人一首や昔話や宗教や出てくる知識を書き写したり、登場人物を思い描いたり、作者について調べたりしながらも、ひたすらに量を読んだ。スナック菓子のようだと思ったことがある。逃避であり依存であることは明らかだ。

いまも推理小説はよく読む。海外の古典ミステリーを選んで、鞄の中に入れて待ち時間に少しずつ読み進めることが多い。

アガサ・クリスティのように、仕掛けがしっかりしつつも、人物造形や村の情景が書きこまれていて会話のセンスが素敵なものがベストだけれど、人がコマのように並び替えられているものもふむふむと読み進める。

わたしの人生に全く必要のない殺人事件に没頭できることは安心で幸福な時間なのだ。

 

玄関

玄関の靴箱の上に小さなスペースがある。

紺色の海原の写真を引きのばして、額に入れて置いている。

そのまわりに、今年行った美術館のポストカードなどを並べることにしている。

スヌーピーミュージアムトミカ

ジブリ美術館のタイガーモス号のイメージイラスト。

サンシャイン水族館のクラゲのポストカード。

水戸芸術館内藤礼のポストカード。

出不精なので、いつも数は多くない。

年末にはしまって、額縁の写真のみになる。

 

beautiful day

深い眠りから目が覚めても、暖かい布団の中でぼんやりとしていた。

夢の断片が頭をよぎる。

清潔な床、友人の笑い声、ざわめく木々の枝、そんな夢だった気がする。

ベッドからゆっくりと降りて寝室を出る。

古びた白いカーテンと窓を開けると、冬の透明な光が、隣の家の屋根に反射して、部屋の中を満たす。

こころゆくまで味わって、それから一日をはじめていこう。

 

万華鏡

万華鏡をひとつ、持っている。

ずいぶん前に赤坂のお店で購入したものだ。

ガラスとアイアンでできていて、赤いガラスの長方体の端に小さめの円筒形が曲面を接していて、円筒形ををつらぬく金色の棒をつまんで回す仕様になっている。

三角の覗き穴から見ると、ベルベットの様な赤とペールグリーン、黒や紫のアクセントがきらきらと華やかにゆっくり動いていく。

手元にはないが、キットを制作したこともある。

筒に和紙を張り、シャーレ状の入れ物に鉱石やビーズを入れ、三面の鏡を内側にして隙間なく繋げるところに苦労した。

万華鏡展に行ったこともある。頭よりも大きい巨大なものや、あちこちに部品をはめながら見るものや、ぴかぴか光るものがあった。端にあった、小さな銀色の馬車や靴や魚を模したオブジェが鎖でつながれていて、ひとつひとつが万華鏡になっているものに惹かれた。

おそらく最初に触れたのは赤い和紙を貼った郷土玩具だと思うが、最初に覗いたときから変わることなく、万華鏡には異国情緒というような、なにか自分から遠くて近寄りがたい、どちらかといえば居心地が悪いのに、その高貴さに憧れてしまうような感情を覚える。

国立にあった羅生門という喫茶店に入ったときのような。

わたしの家の窓際にぽつんと置いてある万華鏡も、ほこりをはらうときもたまに回しながら覗くときも、いつもいつまでも遠い存在のままだ。

 

電話

スマートフォンを持っていない。

持っている人にとって、電話とはどのような存在なのだろうかと考える。

四六時中触っていて、いつも持っているもの。息をするように滑らかに、LINEやゲームやネット検索をしているもの。

その中の機能の一部に電話がある。

ほんとうに緊急だったり、職場だったりごく僅かな使用頻度の、縁遠い存在だろうか。

わたしにとっても、身近ではなくどちらかといえば苦手なほうだ。

用件を伝える短いものを除けば、家族からの生存確認だったり合否連絡だったり勧誘だったり、緊張感を伴うものが多い。

それでもなぜか、ロマンチックなイメージが電話という単語にはある。

天井の高い、観葉植物のある部屋で、深夜か雨の日に電話を待っている、というような。

四六時中触っているものではないのに、部屋のすみで存在感を放っている。

若い恋人たちには、電話はコミュニケーションツールではないかもしれない。

たとえばLINEの頻度の差など、他者に幻想を抱くがゆえに際立つずれはあると思う。

物語に華を添えるような、新たなロマンチックな場面があるのだろうか。

家には3種類の塩がある。

さらさらした海塩と岩塩と昆布の味がする塩だ。

別に料理が上手で使い分けている訳ではない。

使いこなせないので、いつまでも減らないのだ。

岩塩は鉱物だそうだ。自然の力で結晶化したもの。

 

コート

お洒落な人は、秋冬の重ね着の季節が好きだと聞く。

私はお洒落ではないので、重ね着が苦手だ。

天気予報や予定を考えても、それにぴったりと合う服はないのに、さらにトップスとカーディガンと上着を合わせるなんて。

そして、コート。

いくつかのコートを買って、着て、処分してきたが、ほんとうに満足したコートに巡り会ったためしがない。

小さな頃の真っ赤なコート。中学の頃のベージュのジップアップコート。高校の頃はミリタリージャケット。茶色のコーデュロイのコート。GAPの黒い重いコート。ダウンジャケット。

どれも合わせづらかったり、重ね着できなかったり、逆に太って見えたり、すぐにくたびれたり。

洋服を買う時に、ぱっと欲しいと思うかと安さしか考えないのが原因だと思う。コートを購入するには、ほんとうに上質なものを買う勇気と、条件を満たしているか確認できるクリアな頭と体力が必要なのだ。

乾いた空気と白い光、落ち葉を踏みしめて歩くとき、あたたかくて重すぎない、ここから何年も大丈夫だと思えるお気に入りのコートを着て、自由な気持ちでいたいと思う。