彼女の部屋
駅舎の屋根の下を出て、ウルトラマンのおしりを横目に見ながら高架下を歩く。
晴れた午後の日の当たる白い壁を連想する、からりとした街。
「左に大きな金木犀の木があって、その先の右にタクシーがたくさん停まっているところまで来て」と友人は言った。
もとは寮だったというそのマンションは、エントランスを抜けても敷地内には木々が並んでいて、林を進むように、声をひそめて通路を歩く。
部屋の扉を開けると地下へ下る階段と二階へ上がる階段がくっついて並んでいる。
半地下へ降りると、薄暗い白熱電球の灯りのアトリエのような間取り。奥の高い位置に窓があり、中庭の木が見える。猫もふらりと寄るらしい。
壁に貼られた星図の下で、パソコンで映画を観たり、ポルトガルのワインを飲んだり、私の夫と三人でクリスマスケーキを食べたこともあった。
二階のベッドルームで彼女の不要になった洋服や本を並べて、友人たちとのんびり、もらうもらわない、似合う似合わないをジャッジしたりもした。
(グレーの半袖のカーディガンとマーガレットハウエルのパンツをもらった)
炊飯器とテレビのないあの部屋で、彼女は別棟の洗濯室で洗濯をしたり、ホットカーペットの上で朝まで寝てしまったり、仕事に追われたり、恋人にメールをしたり、猫に餌をあげたりしていたのだろう。
引っ越してしまった今も、彼女を思うとき、その頬のあたりにその部屋の灯りのオレンジ色と、地下と彼女の選んだものが混じった匂いが内包されている。
表参道
季節が変わっていき時間が流れることに合わせられずに
呼吸は浅く肩をまるめて視野を狭めて目の端で世界をとらえるようにしている。
ミステイクは鈍く受け流し美しいものはさらりと眉のあたりだけで受け止める。
誰かと会話しているときの自分は輪郭と口先だけになったようだ。
喉が渇いて眠りは浅く首は固まり頭がぼんやりとしびれる。
こんなふうに生きていきたい訳じゃないのに
そんな自分を受け入れられずに
世界にどんどん靄がかかってゆく
友人が愚鈍にみえてしまう。
指摘もせずに胸を重くして自分をどんどん汚していくのだ。
「女神」
画家の石井一男についての本を読んだ。
若い頃に絵を描いていたが空白の期間を経て、46歳からまた描き始めた。
住まいは神戸の棟割住宅、六畳の部屋をアトリエにして、新聞配達を続けながら。
専業画家となってもその生活はほぼ変わらない。
朝6時に起床、昨夜の残り物を朝食としてとり、布団を干す。
散歩をしてから帰宅して絵を描く。
商店街で総菜を買い、昼食後に再び絵を描く。ラジオかクラシックをかける。
夕方になると銭湯へ行き夕食後にも作業を続ける。
9時過ぎには寝床に入る。クラシックや落語を聴くときもある。
雑音の少ない人生と清潔な生活、穏やかで嘘のない人柄、一心に生み出される小さな女神像がだんだんと人の手にわたってゆく。
夢をみた
海へとつづく急勾配の街。人の気配があまりしない。
木々は大きくその緑は濃く、晴れているのに暗い。
重い静けさに包まれて酸素濃度が高いような深い空気。
わたしは出勤のため急いで道を下っている。
その道の下にある団地はもう誰も住んでいない。人々はなんとなく避けて立ち入ることをしない。木々の梢にほとんど隠されている。
団地と同じ高さまで下ってきたわたしは、右手に今まで気がつかなかった道を見つける。地形的にこちらに進めば目的地に着けるのではないだろうか?
(夢の中では感覚で気持ち良い方に意思決定しがち)
左手に団地の白い壁とたくさんの小さな窓、右手に木々を、暗い道を進む。
道が大きく左に迂回すると、突然子どもたちが現れた。
よく見ると、団地のすぐ脇の暗がりに池が湧いているのだ。
痩せたからだ、簡素な服の子どもたちが、池に浸ったり、団地の窓に腰掛けたり、木にもたれたりしながら、はしゃぐでもなく、でもどこか楽しそうに群がっていた。
センサー
上井草のいわさきちひろ美術館に「ショーン・タンの世界 どこでもないどこかへ」を観に行った。
道に迷いやすく地図が読めないので、どこかへ出かけるときは、行き方を調べて紺色のノートにメモして持っていくようにしている。(今回は上井草の駅から連綿と矢印つきの表示が出ていたため確認の必要はなかった)
美術館に行くときに、目的地に近づくにつれ明らかに同じところに向かう人を見つけると、居心地が悪くなるのは何故だろう。美術館に行くわたし、その道中を楽しむわたし、いつもより自分のストーリーに入り込んでいる状態。そこに明らかに見た目で分かるくらいにやはりストーリーを持っている人が現れる。そちらに引っ張られてしまって、入り込めないあやふやな状態というところかな。
住宅街の中の美術館。隣の敷地のジャスミンが満開だった。
1階と2階に展示室が4つあり、順番通りに回ると、いわさきちひろとショーン・タンの展示を交互に観ていくようになる。
いわさきちひろというと、少ない線で構成されたこどもの顔といった印象だったが、多種多様の絵をいちどきに観ると、そのデッサン力の高さにびっくりする。鉛筆と水彩の使いようなどテクニックに見とれてしまった。
その後にショーン・タンの油彩画(イメージボードや各国の風景)を観ると、いったん茫洋とした気持ちになる。
しかし展示室を進むにつれて、イメージスケッチ・デッサン・コマ割り・立体・写真による世界観と物語の構築、年表やアトリエやメッセージを観ることで、どこまでも緻密な作業と長期にわたるその情熱にひきつけられた。
そしてその奥の方にある切ないポイントがいちばん好きなところ。
「生命山羊と山羊飼い、および乗客だち」という絵と「ロスト・シング」という映画にそれが一番現れていた。
ライフ イズ ストレンジ
主人公はマックスという女子高生。ボブヘアでテイラー・スウィフトに似た顔立ち。内気で校内に友人はあまりいないようだ。写真を専攻していて、自撮りをよくする、おそらくカルチャー好きのオタクと認識されている。
このゲームが気に入ったのは、オレゴン州付近と思われる高校の敷地内にある寮の彼女の部屋に入ってからだ。
実家や都会の一人暮らしや一軒家より、寮の部屋に惹かれるのは何故だろう。
制限されたスペースと規律に従ったなかでより際立つものたち、しかも全て把握できる、すぐに運び出せる量であること。
引き出しの中のひとつひとつまで他者の目にさらされる可能性を秘めている、そのことがある種の清潔さを際立たせているように思う。
ベッドの壁一面に貼られた写真。カルト・ムービーのDVD、アコースティック・ギター、簡素な洋服、PC、母親から贈られた観葉植物。
彼女が部屋に入り、音楽を流すと同時にオープニング・ムービーが始まるのだが、このゲームには彼女の自省とも瞑想ともつかない世界へのグラウディング・タイムがある。町へでかけるバスの中、ダイナーの中、木立と線路にはさまれた廃品置き場に腰掛ける際、ギター・ミュージックが流れ、世界の時計は進んでいき、彼女の横顔に日差しがそそぎ、風がなぞる。
メイン・テーマは選択であり、会話と行動を選び、その場所から出るまでは何度でもやり直しがきくため、そのシーンの結末を自分で決定していき、その選択が寄り集まってラストが決まる。
灯台のある海沿いの町、寮の部屋、青い髪の親友、ダイナーでの食事、廃品置き場の秘密基地、線路を歩くこと、ボーイフレンド、失踪事件の捜査。
自分が生死を決めるような重い選択を何度も迫られるし、マックスの精神も身体も追いつめられ、後悔するような選択もたくさんしてしまった。しかしその選択の積み重ねで自分の人生と世界が積み上げられていく。
それを肯定し引き受ける覚悟ができる、体験でした。